安岡正篤氏が主唱した「郷学」(自分のふるさとの先輩、歴史を学び、悟るという内容)に共鳴し、自分もふるさとについて語りたい。
1.ふるさと当麻町のキーワード(9ケ)
@当麻町の由来、歴史 A屯田兵 Bデン助スイカ C当麻鍾乳洞 D米の生産
E森林組合 F当麻ダム G当麻山 H石狩川
2.当麻町はどこにあるの?
北海道の中央、旭川市に隣接した東側に位置しているのが当麻町です。
旭川市から国道 39 号線を 10km 進んだ地域にあり、東側のはるかかなたに大雪連峰をながめる風光明媚な農村です。
当麻町(とうまちょう)というやや変わった名称は、アイヌ語で湿った沼地という意味から由来した、とのことですが、はっきりしていません。
3.来歴
明治26年5月に入植した、という記録があり、屯田兵という名前の軍隊がこの町を作ったのです。この屯田兵についての資料はWebサイトで見ることができます。
当麻町の屯田兵については「当麻屯田百年史」 1992年(平成 4 年)発行に詳しく書かれています。
以下、来歴については当麻町ホームページに詳しくあるので省略。
4.地形・人口
当麻町は農業がメイン産業からわかるように平地で米作りに適しています。
平地と共に山も全面積の 1/3 程度あり、山、川、谷、平地と地形的にバラエティーです。
このバラエティーが特色であり、いろいろな分野で他市町村と比較して有利な立場に立っています。
さらに有利な立場に立っている地形として、石狩川の蛇行の変化による土地の肥沃堆積があげられます。
つまり、当麻町は石狩川が愛別町をすぎた地点から左側の当麻山について流れが蛇行したため、ここが肥沃な土地となったのです。
この肥沃な土地のおかげで北海道一番の米の生産地となっている。
さらに町営の当麻ダムを所有していることは、米作りに必要な水の確保が保たれているため、米作りのための水不足がありませんでした。
このダムは、単なる水の確保のみならず、冷たい沢水を一時的にためることにより水温を高め、稲の発育を促している働きをしています。
人口について、最高 1万4,000 人の時あり、現在は約 7,600 人。
5.気候
北海道の夏は梅雨がなく、カラリとした気候です。夏の北海道をあこがれるのも無理ありません。カラリとした天候というのはつまり、湿度が低いからなのです。温度が高くても湿度が低いと体感温度はかなり涼しく感じるのです。
当麻町を含むこの地域は上川盆地と云い、まわりが山でかこまれています。それ故夏は高温なのです。これが米作りに有利な条件として働いています。
逆に冬は盆地なので寒さがさらに加わることになります。
気候と地形は、その地域に大きな影響を与えるものですが、我が郷土は幸運にも恵まれています。
冬は日本海側からの冷たい風が山脈によりさえぎられ、この地域は「冬のからっかぜ」の気候でなく、他の地域に比べ過ごしやすくなっています。
6.財政
今、地方財政は、国の政策の破綻のしわよせを受け、ピンチになっています。しかし、我が郷土は他市町村より豊かな財政です。
(1) その理由は、豊かな財政の時預金していたからです。しかしその預金も少しずつ切りくずして使っていますが、それでも他市町村より台所はまだ苦しくありません。
(2) 米の生産による収入があること。
(3) デン助スイカの生産・出荷により全国的に有名になったこと。これが財政に寄与しています。
(4) 町有林を所有しており、ここからの木材を加工して出荷していること。
(5) 当麻鍾乳洞があり、金額は多くないとしても恵まれた観光地を持っていること。
現在も市町村合併の話が出ていますが、当麻町は旭川市と合併しない方針とのこと。合併すると税金が高くなること、さらには当麻町としてのアイデンティティーが失われること、等の理由からでしょう。
隣の比布町、愛別町との合併話が出てきているものの、いまだ実現していません。しかし、裕福な町である当麻町がリードして2つの町を吸収する形で合併することが予想できます。
7.小林豊の生いたち
昭和 23 年当麻町で生まれた。 8 人兄弟で上から6番目(注:実際は 10 人兄弟だが 2 人は幼い頃病死)で、多くの兄弟の中で育った記憶が残っています。
家業が農業なので、学校からすぐ手伝いさせられたのを覚えています。
たしか小学校に入る 2 年前に電気が点いたのを覚えています。それまではランプ生活でした。小学校は当麻小学校で家から 15 分の距離で毎日歩いて通学。小学4年の時それまでのボロ校舎から、レンガつくりの
5 角形の教室という、その当時としては超モダンな学校になりました。
当麻町は上川管内の中でも財政の豊かな町だったのです。
当麻中学校は市街から北へ 1 kmの高台にあり、柏ヶ丘という名前です。
冬には、この丘で(校庭のすみ)スキーの授業ができました。
昭和 39 年には高校進学となり、旭川へ汽車通学となりました。
旭川東高校は旭川近郊からの中学卒業者が集まりました。この高校生活が当麻町から都会である旭川に出た最初の風景でした。
当時の安達当麻町長は、旭川に通学させることにより都会の子と競争させ、学力を向上させるため、当麻町に高校を作りませんでした。
生まれてから高校卒業までの 18 年間、当麻町にて育ったのです。この生まれた環境こそ、現在の自分の生みの親なのです。
8.郷土の先輩達
自分が知る限り、我が郷土で一番名を成した人は安達元当麻町長ではないしょうか?
町長を計 24 年間というから 6 期連続当選ですので、当麻町では新記録でこの記録は今後更新されないでしょう。
・ 当麻ダム
戦後、農業振興、農業生産増を目的として、当麻ダムを作ったことは画期的でした。
その理由は次の通り。
1. ダムを作る地形がぴったりしていたこと。
2. 水没する地区の保証金がほとんど不要だったこと。
3. ダムを作るための財政的余裕があったこと。
農業用水の安定的供給をめざしたこのダムは当麻町民専用で、1つの町のためのダムは、日本中広しと云えども大変少ない例です。
ここで、余談。ダムを作って50年も過ぎるとメンテが必要になってきます。ダムは谷間をコンクリートでせき止めて水を溜めるのですが、そのコンクリートの根元から、水が少しずつもれてきており、修理をしないと大きな穴になり、最後は洪水のごとく破裂してしまう。このため、初期の状況で穴埋めの補強・修理が必要になってきます。
この修理工事は財政的に負担がかかるので、道や国に補助金申請することになります。
道に陳情に行くと、治水関係は国の権限だからととりあってくれない。国に行くと、一町村の問題だから道に相談したら、とたらいまわしです。
このダムは当麻町専用だから自力で修理すべし、とつれない回答。
環境保全、地球環境という大局的見地から見れない小役人。
この当麻ダムへ遠足で行ったのはたしか中学1年生の頃でしょう。このダムはもちろん観光地なのです。昼にダムを見下ろしながら食べたおにぎりのおいしさは今でも忘れられません。
今でこそ、歩く機会が少なくなりましたが、当時はデモ隊のように歩いたのです。たしか片道2時間位歩いたような記憶がします。(注:遠足とは歩いて遠くへ行くこと)
ダムは自然の巨大な保温機なのです。
4 月に入ると雪がとけて、このダムに水がためられ、田植時期( 5 月中旬)まで待機しています。
この待機している間に、冷たい水が暖かい空気にふれ水温が上昇します。この暖かい水が農業用水として、稲の発育に大きな役割を果たします。一方、隣村ではダムがないため大雪山から発した石狩川の水を引き込み農業用水としますが、この水は水温が低く、これにより稲の発育にとって不利となります。
当麻町は、全道一番の米作り町として、名をはせていますが、肥沃な土地、ダムの水、高温という有利な条件があるからです。
今後、ずっと全道一番で、この地位は不変でしょう。
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